幕末の天保二年(一八三一年)東国出羽国、 東根の長瀞藩が藩領上野畑村(現尾花沢市銀山温泉の白銀滝の上流) 産出の陶石を浪花(大阪)におくり、その陶工長野信光山に染付磁器茶碗の 試作を依頼、出来あがり上々であったことから天保四年(一八三三年)に 浪花から肥前古伊万里系の陶工長野左市、徳兵衛等を招き、上野畑村に天秤積形式の 連房式登窯を築き、附近より産出する陶石をもちいて焼いたのが「上の畑焼」起りです。 この上の畑焼は、過去数回の発掘調査で出土した破片から、古染写・祥瑞写・芙蓉手・色絵と いったものをめざした、雪深い東北地方にあっては理想の高い窯でもあることが確認されました。 又、山形県内の四大古窯(米沢成島焼・山形平清水焼・新庄東山焼)の一つであり東北地方の磁器窯としては、 宮城県の切込焼・福島県の会津本郷焼についで三番目の歴史をもっています。 しかし、この呉須絵付(染付)による独特の色あいと趣をもった上の畑焼も何故か天保時代の十年余で 窯の火が全く消え、以来幻の焼物となりました。